レジームチェンジ反対

2008年02月21日

「内部」からの声

――こんにち中国、太平洋の各地における日本軍隊の言語を絶した野蛮(バーバリ)がつぎつぎと暴露されている。ところが、それを憤るひとたちの表情にはある種の絶望を禁じえない。そういう野蛮(バーバリ)に対して無感覚になっている同胞を責めることの不当を指摘するのではない。なにかよそごとのような、つめたい傍観者の態度で、それを論議している浅薄な感情につばきしたい嫌悪感を抱くのだ。自分のような文化人は、知識人は、いかなる条規を逸した戦争心理にかられようとも、あんな残虐行為はしないであろう、かれらは無教養な民衆だから……、と、いうつもりらしいが、それは「内部」の民衆を自覚しないものの痴言である。日本軍隊の野蛮(バーバリ)は、たとえば、水面上に浮かんだ氷塊のごときものであって、その下には巨大な野蛮(バーバリ)の根がひろくふかく伸び切っているのだ。

荒 正人『近代文学』1946年4月評論  小熊英二『民主と愛国』より孫引き


わたしたちは、この日本における年間三万人を超える自殺者を無意識の領域に押しやっている。わたしは押しやっている。そうして、なるべくなら、できるだけ、そのことについて考えないようにしている。だが、残念なことに、たしかにそれは現実のできごとなのである。テレビからは、せえのでポンっと、よほど浅はかに見える若年者の自死に対して、彼らの習性の、育ちの、あるいは学習能力の瑕疵をあげつらって、こらえ性がない、もっと強くなれ、考えろ、などとPTAの提言のような訴えが繰り返される。その一方で、ワーキングプアと呼ばれる実情、わたしたちの目に触れるそれはおそらく「氷山の一角」であろうが、そういった実際に窮地に立たされ疲れ果ててやむなく、死を選ぶ多くの声に、真摯に向き合おうとしない。わたしは目をそむけている。平和だったはずの家の中で起こる凄惨なできごと。尊厳を奪われるほど貧窮した人々の生活。こんな映像を見るにつけ、わたしは思う。ここでのんびりしているわたしは本当に明瞭に、いや、漠然とであれ、彼我の違いを見出しているのか、と。死を選ぶものとそうではないわたし。その違い。……そう、そこには違いなどない。死を選ばされる人間と死なない選択、つまり今を生きる道を選ぶことのできるわたしたちとの違いは、わたしが彼ではなかったというほか、特段の違いは見あたらないのである。そんなわけでわたしは今の日本社会が平和だとは思っていない。この日本では社会そのものに死の要求を突きつけられるリスクが以前と比べて格段に高まってきている。散見される医療や介護の現状を見れば、それは誰の身の上にも、無差別に起こりうるできごとなのだ。

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posted by gon at 20:57| Comment(9) | TrackBack(4) | 小熊英二を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月12日

告白

幸に今日はまだわれわれが平和を口にすることが安全な時期であり、ある意味で好い子になっていられる時でさえある。だが、きわめて好ましくない予想だが、ある将来の時期において再び平和を語ることが身辺の危険をさえ意味するようなそうした時期が来ないとは断言できない。私はその時のためにこの私の平和への意志を宣言しておく。もしその時またしても私の心弱さが大勢という圧力の前に、平和への裏切りを示す詭弁を弄ぶようなことがあれば、人はこの文章を記憶して私を鞭ってもらいたい、糾弾してもらいたいのである。すでに平和は私たちが死をもって守らなければならない時に来ているのである。

「一つの告白」中野好夫 「民主と愛国」小熊英二 より孫引き


私にはこのような覚悟はない。

私はこの社会に中野のいう、まとわりつくような嫌な気配を感じる。だが、ここで中野の発したこのような言葉で「今」に対峙する覚悟は、私にはない。ただ、これはいいわけのためのいいわけのようにも聞こえるかもしれないが、私は中野のこの言葉にいくらかの懐疑を覚えるのだ。ここで「今」を見てその視点を翻し、我が身を省みての私自身の思いがそうさせるのである。
それは、たとえ私のこころの弱さがメジャーな圧力の前に屈することになったとしても、「その時」に私をムチうつ人間など存在しないだろうということを考えるからだ。
私はもうひとつ、良心の呵責ということも考えてみる。そのことが辛くて、その苦しみが罰となりうるのではないかという議論もあろう。しかし、まさにそのことが罰となりうるのなら、……私は「平和への裏切り」など最初から考えはしない。

現存する地獄に対等するほどの慚愧の念に飲み込まれれば、私は死をもってそこから逃げ出すだろう。

もちろん、私のこの告白は中野の云いとその業績をいささかも否定するものではない。
だが、

仲良し家族が…“安い中国製に押され”足立・4人死傷
http://s02.megalodon.jp/2008-0212-1737-06/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080212-00000908-san-soci

「安い中国製に押され」……、
こういう物言いがまかり通る世の中で中野のいう「覚悟」がどれほどの意味を持ってくるだろうと考えたとき、わたしは戸惑いを覚える。私はこの社会の中で、すでにこの一家を殺すことに荷担している自分自身を考える。そのとき、しかし私の心はいっこうに自らを罰することをしない。いや、痛みは感じるのだがそれはあまりにも鈍い。良心の呵責などという恐ろしげなものとは違う。しかし、彼我の運命の違いに目をやれば、たしかに私は、何者かに感謝すべき生き残りなのである。私の家族が、彼らの家族でなかったということに、何ほどの必然性もありはしない。これが社会の罪である限り、私の責任は免れないはずなのだ。その責をまったく感じていないということはおそらく、私も自身の嫌悪する何者かになってしまっているのだろう。

私は「鬼畜米英」という言葉を信じ、自らの家人を手に掛けてしまった方々のことを思う。

ふるえが止まらなくなる。そういうことを思ったとき、私には中野のいうような「覚悟」はない。そのことに気付く。鬼畜と形容するほかない米兵の所業が現存するこの社会に生きていて、私は全体、いっこうに良心の呵責を感じていないのである。それが私に言葉を要求する。私は何かを伝えなければならない。

私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。

萩原朔太郎『月に吠える』



私の求めているのは、解脱というものだろうか。



◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

私は何もしたくはないのだ
何度繰り返しても
理解していただけないか
何故現実はこれほどまでに
私の言葉の正統性に関する論証を要求するか
何故これほどまでに
忌まわしき禁呪を唱えることを強いるか
私の言葉のどこにも正統性がないことを
一体如何なる言葉が証明し得るか
何故これほどまでに・・・、
この宿命は誰の所業か

貴様か

我は核心を得たり
しかし一体、それがどうしたというのだ
posted by gon at 18:29| Comment(0) | TrackBack(10) | 小熊英二を読む | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする