――こんにち中国、太平洋の各地における日本軍隊の言語を絶した野蛮(バーバリ)がつぎつぎと暴露されている。ところが、それを憤るひとたちの表情にはある種の絶望を禁じえない。そういう野蛮(バーバリ)に対して無感覚になっている同胞を責めることの不当を指摘するのではない。なにかよそごとのような、つめたい傍観者の態度で、それを論議している浅薄な感情につばきしたい嫌悪感を抱くのだ。自分のような文化人は、知識人は、いかなる条規を逸した戦争心理にかられようとも、あんな残虐行為はしないであろう、かれらは無教養な民衆だから……、と、いうつもりらしいが、それは「内部」の民衆を自覚しないものの痴言である。日本軍隊の野蛮(バーバリ)は、たとえば、水面上に浮かんだ氷塊のごときものであって、その下には巨大な野蛮(バーバリ)の根がひろくふかく伸び切っているのだ。
荒 正人『近代文学』1946年4月評論 小熊英二『民主と愛国』より孫引き
わたしたちは、この日本における年間三万人を超える自殺者を無意識の領域に押しやっている。わたしは押しやっている。そうして、なるべくなら、できるだけ、そのことについて考えないようにしている。だが、残念なことに、たしかにそれは現実のできごとなのである。テレビからは、せえのでポンっと、よほど浅はかに見える若年者の自死に対して、彼らの習性の、育ちの、あるいは学習能力の瑕疵をあげつらって、こらえ性がない、もっと強くなれ、考えろ、などとPTAの提言のような訴えが繰り返される。その一方で、ワーキングプアと呼ばれる実情、わたしたちの目に触れるそれはおそらく「氷山の一角」であろうが、そういった実際に窮地に立たされ疲れ果ててやむなく、死を選ぶ多くの声に、真摯に向き合おうとしない。わたしは目をそむけている。平和だったはずの家の中で起こる凄惨なできごと。尊厳を奪われるほど貧窮した人々の生活。こんな映像を見るにつけ、わたしは思う。ここでのんびりしているわたしは本当に明瞭に、いや、漠然とであれ、彼我の違いを見出しているのか、と。死を選ぶものとそうではないわたし。その違い。……そう、そこには違いなどない。死を選ばされる人間と死なない選択、つまり今を生きる道を選ぶことのできるわたしたちとの違いは、わたしが彼ではなかったというほか、特段の違いは見あたらないのである。そんなわけでわたしは今の日本社会が平和だとは思っていない。この日本では社会そのものに死の要求を突きつけられるリスクが以前と比べて格段に高まってきている。散見される医療や介護の現状を見れば、それは誰の身の上にも、無差別に起こりうるできごとなのだ。
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