第27条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
たとえばナマケモノという生き物がいる。で、その生き物が通説のごとき怠け者であった場合にわたしはナマケモノっていいなと思う。だけど、ナマケモノにはならない。ああいう生き方はできると思う。今の日本なら可能だと思うがやらない。
猿ですから、芸やります何でも。犬ですから、言うこと聞きます何でも。雉子ですから、鳴いて見せますよ撃たないでください。だから餌下さい。動物の真似ごとを人間がやったらこんなふうに不細工なことになる。だから、犬や猿や雉子がどんなに素晴らしい生き物だったとしても、人間にそれを置き換える意味がわからない。彼らの生き様にいいようもない感動を覚える。これは素晴らしい、結構なことだ。しかし、それを我々全体とつなげて、人間存在を語るという言説は実際何を物語っているのか理解できない。それは金魚を見ながら、ああアヒルもそういった生き方をすべきだのにといっているのと同じことだ。金魚はアヒルになりたいと思わないし、アヒルはまた金魚になりたいと思っていない。自由に空を飛び、海の中を心ゆくまで縦横に駆けめぐりたいと想像するのは人間だけであって、そしてそれは鮫や禿鷹になりたいと思っているわけではない。私はもちろん、今具体的にあげた動物を卑下するつもりは全くない。
ホームレスについて「何で働かないのだろう」という。何か重大な過失がその人自身にあって、それでその位置にいるのだろうと考える。自分も一生懸命働いている、汗水流して昼も夜もなく働いている。それなのになんで、働きもしないで人権を主張するのだという。人間だから屋根付きの家に住まわせてくれ、自立するための仕事をくれ、お願いだから人間扱いしてくれよと言っているのに、聞いてくれない。ホームレスは鳥や魚とは違うのだから、いつでも彼や彼女らと同じ立場になることはできる。仕事を辞めて、道端で寝ることはできる。自分がきつい思いをして彼らが怠けている、楽をしていると思うのなら取り替えてみればいいと思うのだがそれをやらない。やらないくせに、自分が働いてきつい思いをしているのに働かない人間に人権をやるのは嫌だという。働かないものには自由がなくて当然だという。人間として最低限度の生活も保障されていないものから自由すらも取り上げてそれが当然だという。こういうものがいたとしたら私はそれを鬼畜と呼ぶ。そういう生き物は人間ではないし、その他多くの動物たちとも違う。だから鬼畜と呼ぶ。以上だ。
シリーズとしては続きます
明日か明後日かその後か
2月12日 7:25 太字の部分を加筆、以下に追記
最初に出したナマケモノの生き方を可能にする方法というのは、仕事を辞めて道端で寝ることではない。人間社会のナマケモノの生き方というのは、たとえば株で大儲けしてそれだけで生活していくとか、借金を元手に高利貸しでもやってほかの人間に自分の食い扶持を稼いでもらうことだ。もちろん私はナマケモノを貶めているわけではない。最初に書いたとおり、ナマケモノは素晴らしい。私自身の怠け者はいつでもそこに憧れている。だが、やはり人間としては自立して働きたい。また、人生を賭けるギャンブルをするほどの勇気もない。だから私は宝くじを買い、欠伸をしながら今の仕事を続けるのである。私なりに幸せな人生である。
何か昨日書いた文を見て誤解されたら困るなと思うところがあってつらつらと書いてみたのだけどあんまり上手くない。やはり自分を脇へ置いて他人の批判はするべきではないな。でも、まあ出してしまったのだからそのままにしておこう。もし、この文を読んで嫌な思いをした方がおありでしたらごめんなさい。




これは大変に差別的な言葉ではあるのですが、その一方で、彼らと自分たちの差なんてせいぜい「地べたに座るか座らないか」程度しかないという、ギリギリの想像力が働いていた気がします。
人権が声高に言われる時代になって、逆にこのギリギリの想像力をなくした人が増えた気がするのは、なぜなんでしょうか?
言われることは解ります。その通りだと思います。ワタシは理由や説明依然に「人として」の想像力や感性を磨けよ、と乱暴に言いたい。けど、それは哀しいけれど一つ上のレベルなのかもしれません。
現実にホームレスを強いられている人は、使い捨てられる社会構造のなかで棄てられたということを押さえずに「自己責任」と括られすぎます。邪魔だ、目障りだとのたまいながら「道路や地下鉄やビル」を利用する市民の生活も「ホームレスに追い込まれる日雇」の働きで成り立っていることを、まず知るべきでしょう。そこから使い捨てられる構造も……。
私がよく美術館に行ったり、動物園に行ったりしていた頃とはだいぶ風景が変わったようですね。上野も。