レジームチェンジ反対

2009年05月26日

民主党のモリ派(=軍産ヴァンパイアの手先)に鈴を付けろ

いまいち盛り上がらないんだよね

いろんな人が言ってくれてるのに

みんなスルーしちゃう

特に、

「今は自民党(時には公明党とセットで)を降ろすことが先決だ。

 共闘が大事だ」


って(繰り返し繰り返し、何度も、いつまでも)言ってる

民主党の支持者のみなさんが

触れようとしないんだよな

何でだ?とはもう聞かないよ


民主党支持者のみなさんは、

「『憲法』なんてどうでもいい」

と、思ってるからだよね


あ、違う

そうか、それはよかった。なら聞くよ

これは何だ?

 「時代に沿って変えなければいけないものが50年、60年変わっていない。
   ここに最大の問題がある」     by ハトヤマ民主党代表


何で、今、こんなことを言い出すんだ?

ハトヤマ民主党代表は



こら、

インフルエンザ騒動の陰に隠れて

しれ〜っとふざけたこと言ってんじゃねえぞ

何が 「ここに最大の問題がある」 だ、 アホンダラ

「憲法が変わらずにある現状」が「最大の」問題だと?

野党第一党の党首が「最大の問題」視してるのが、現「日本国憲法」だと?

おいこら、民主党支持者のみなさん、よ

教えてくれ

ここで民主党党首の鳩山さんが仰る「最大の問題」というのは、

みなさんにとってもそうなのかい?

みなさんにとっても現「日本国憲法」の有りようは、




「最大の」問題なのかい?




< ああ、もちろん、俺にとって、「憲法九条の改変」は、最大(級)の問題だがな >



てか、民主党は「革命」でも起こそうというのかい?

野党の党首が「改憲」を口にするというのは、

「普通は」そういうことだよな







【壊憲手続き簡略化法案の最新記事】
posted by gon at 20:24| Comment(8) | TrackBack(1) | 壊憲手続き簡略化法案 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月05日

がんばれ!



生きてるか。

生きてるよな。

よし。



・・・ざけんじゃねえぞ。死ぬなよ。殺すなよ。


おい、くそったれども。

悲しい気分のときは、誰かのこと、思い出すんだぞ。

誰もいない?

そうか、ならネットに当たれ、そうすれば、、、

そうすれば俺たちがいる。

ここにいる。

いつでもいるから、

だから、

だから、死ぬなよ、

な。




そして、

そしてキヨシロー!

、、、お前も、



 ♪ いつものようにきめてぶっとばそうぜぇ〜



いつまでも、

な。

posted by gon at 21:10| Comment(8) | TrackBack(6) | つれづれなるままに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月02日

ブログゴロ

はい、お待ちかねのコメント集、第3弾です。
今回も愚樵さんのとこから、
こちら「内山節と内田樹」のコメント欄にて
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-223.html

<え、誰も待ってないって?そんなこと言ってないで、さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃいだ。あたしらは、この先の時代を乗り切るためにみんなで力を合わせてこの船に帆を張り、満面の風を受け、虹の架け橋を目指して舵を取っていくんだ。そのためにはなんとしてもこの船の「言論の自由」を守っていかなきゃなんねえ。だから、そのあたしらの未来への航路のために、あたしらの「言論の自由」をまとにかけるこの薄汚ねえやり口、みなさんしっかと覚えておいておくんなさいまし。ぜひとも、ぜひとも、>

「長くてゴメンよ(その1)」

当たり屋というしのぎがあります。(多くの場合、自分の)子どもを走っている車にぶつけておいて、そのドライバーから法外な金をふんだくるというものです。これは、車社会というシステムを的にした極めて悪質な行為といえるでしょう。

運転手は常に事故を起こす可能性を持った存在で、誰かが飛び出してくるという偶然に対して抗うことはできません。そうして、飛び出してきた子どもをはねてしまったら、自分の責任で事故を処理(しようと)しなければなりません。これは法理としても、倫理としても、間違いのないことです。だから、実際のところ、当たり屋的な、そういうのに付け狙われたら(普通は不特定多数の人を狙うのですが、仮にそういうことがあったとして)その人は車の運転をやめるほかなくなります。

これが実は、わたしたちを取り巻くシステムの息苦しさ、にほかならないのです。社会というシステムを生きる限り逃れられない責任。村上春樹のいう壁です。

そうして、その「いきぐるしさ」が社会全体を覆い、人々が自分の車の運転をほかの人に頼むようになるのがファシズムの萌芽です。そうしてそれはやがて、人々の心に「〜の資格がない」という言語形態をとって、人間をムラ社会的な集団にわけ(ここでは運転手と客として)社会全体を排除と差別の論理で蝕んでいきます。そのようになってしまった社会に生かされている個人は、互いに隣人の監視をし、すきあらば「当たり屋」をするようになります。これでファシズムの完成です。そんな社会では平気で「〜のくせに」(ここでは「運転手のくせに、飛び出してきた子どものせいにするのか」とか)という言葉が散見されるようになります。いえ、散見されるようになるのは問題ではありません。ジャイアンやスネ夫が「のび太のくせに」とか言っても。子どもたちにはそれを言う権利があるのですから。そして子どもたちには、それを言って大人たちに窘められる権利があるのだから、です。

そう、一番の問題はそんなこと「〜のくせに」を口にしてはばからない大人が増えたところにあるのですね。

| 2009-03-01 | ごん #bLNrjBuk URL [ 編集 ] | コメント番号2128 |


「長くてゴメンよ(その2)」

さて、今、日本というシステムは非常に息苦しくなっています。これは、各人が犯した過ちに対しての寛容性がなくなったきたことに起因しています。寛容性とは「人間だもの」という「節」と言い換えてもいい。もともと人が犯す過誤とその罰則は相応の妥当性という節をもって施行されたもので、その節をもって維持されてきたはずです。だから、そこから考えると「当たり屋に狙われるのなら運転はしない」というところに人が追い込まれるというのは、法制度自体がその節を侵しているということになるのです。当たり屋は子どもがぶつかってきたときに運転者が被る罰則というシステムに狙いを付けてきているわけですから。(ことわっておきますが、わたしは運転者を擁護しているわけではありません。ここでわたしが問題にしているのは、唯ひとつ、当たり屋の反社会性です)。「当たり屋に狙われるのなら運転はしない」というのは法治国家の観点から見れば理のない話しなのです。当たり屋が横行するのは、その当たり屋の行為自体を(システムを利用して他人から利益や権利をむしり取る)を国なり裁判所なりが厳しく戒めないからです。ちなみに、今もっともその行為が横行しているのはマスコミですね。

そして、日本語というシステムの必要性を認めるのなら、当たり屋的な物言いをやめることです。やめさせることです。わかりやすい当たり屋的行為というのは、人を犯罪者扱いすることです。それをやられると「普通」の人は「もうしゃべるのをやめよう」と思うからです。法律は個人に人を裁く権利を与えてはいません。だから、当たり屋的な物言いは越権行為です。人を犯罪者扱いするのは、(そのことが事実だと確定すれば)犯罪です。法治国家に生きるわたしたちは、その行為が犯罪だと確定する前に、そのことをきつく戒めていくべきでしょう。

日本というシステムをここに生きる我々に有用なものとして維持していくために。

「こんなこと言われるんなら日本で子どもなんか産まない方がよかった」

こんなことを人に言わせる国に住みたいと思いますか?

「日本に生まれたのがいけなかったんだ」

こんな日本語を聞きたいですか?

| 2009-03-01 | ごん #bLNrjBuk URL [ 編集 ] | コメント番号2129 |
posted by gon at 18:45| Comment(0) | TrackBack(2) | 散策(コメント集) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月01日

善意と非難

コメント集の第2弾です。

今回もこちら、愚樵さんのとこから、
「科学についての対話」
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-228.html

ちなみにあたしはあちらで、
お話し合いの一方の当事者であるLooperさんに、

「エントリと無関係の話しはおやめなさい」

というふうなお叱りを受けました。
で、このコメントもそういう類の(「科学」とは直接関わりのない)話しかもしれません。なので、「科学的なこと」以外に興味のない方はお読みにならない方がいいのかもしれません、ね。

お騒がせしてごめんなさいね。m(_ _)m >あちらにいらしたみなさん

(※「批判」と「非難」はちがう言葉です。特に今回はその点をご考慮の上、お読みください。よろしくお願いします)

「善意の第三者」

>「非・科学者」という意味でなく「非科学・者」として使われたようです。

ああ、科学の話じゃなくて、リテラシーの話でしたね。(まあ、この言葉の使い方【=非科学・者】が一般的かどうかなどという細かいことは抜きにして)だとすれば、「非科学・者」が「科学・者」もしくは「科学者」を非難することは別段不可解ではないですぜ。たとえば宗教家の立場から科学者が非難されることはいくらでもあるわけで。それに、大槻教授ってのはこの場合どちらに属するんでやんしょ?

>まあ、ありえんわな、というツッコミは覚悟することになるけど

一般の人は、その程度のツッコミはいつでも覚悟すべきですし、また、実際に覚悟しているんじゃないですか。亡くなった遺族が仏壇にいらっしゃるかどうか、という大袈裟なのでなくて、水伝程度のことなら。
水伝の場合は、(「うつくしい」とはどういうことかなどという高尚な議論はわきへやって)それに引っかかりやすい人というのは、だいたい善良な方が多いというふうに見ています。というのも、あれは、オレオレ詐欺みたいに人の善意につけ込む類のインチキですから。だから、その部分(人の善意につけ込む)を自覚しつつ、騙そうとする人間が卑劣なのであって、ただそれだけのことです。
それで、そのインチキになんとなく引っかかってしまった人を非難するのは、オレオレ詐欺の被害者を非難するのとだいたい同じなように思います。(この場合、実際に金を払うわけではないから、オレオレ詐欺よりも、「なんとなく」引っかかる可能性は高まるでしょうが)。そんなオレオレ詐欺や水伝に引っかかってしまう人を非難するというのは、それが善い行いかどうかはしりませんが、あたしはそんなことはしません。

人の善意というものを信じられない人間にはなりたくありませんから。そうなるくらいなら、人を信じて泣く方がいい、です。鬼ばかりの世間を渡るなんてのは地獄を生きるのと大差ないでしょう。


| 2009-03-24 | ごん #bLNrjBuk URL [ 編集 ] | コメント番号2520 |


posted by gon at 18:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 散策(コメント集) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月31日

意志

詩5つ、



「告白」
http://teagon.seesaa.net/article/83720599.html

私は何もしたくはないのだ
何度繰り返しても
理解していただけないか
何故現実はこれほどまでに
私の言葉の正統性に関する論証を要求するか
何故これほどまでに
忌まわしき禁呪を唱えることを強いるか
私の言葉のどこにも正統性がないことを
一体如何なる言葉が証明し得るか
何故これほどまでに・・・、
この宿命は誰の所業か

貴様か

我は核心を得たり
しかし一体、それがどうしたというのだ





「がんぢすのほとりにたちて」
http://teagon.seesaa.net/article/90936664.html


沸き上がる黒煙
流るる血潮は
生命の水泡をもてあそぶ
その汚泥に、口付けをしなさるか
「あそこの病人はいかに」
救えるのは確かに、あなたしか居なかった
何故にあなたは
無言のままにおはするか
なんたるか
わたしは言葉を知らない
如何なる言葉も
手足が震える、
   からだぢうが震える、
 この場所からただの一歩も、
    動き出すことができない
お願いです
その水に、口付けをしないで下さい
救えるのは確かに、あなたしか居なかった
それで、それでいいのではないのですか





「楽天家の断層」
http://teagon.seesaa.net/article/87583668.html

ここに誰かがいたことは
ここにいる誰もが知っていたのだが
ここに誰かがいたということを
語るものはどこにもいない
ここに誰かがいたということに
何かの意味があるかといえば
それはもちろんなにひとつ
意味らしきものなどないのだろう
これは当然にひりずむという
つるんとした壁面を切り出すのであるが
ここにいるすべてのものが
それがひとつの世界であることを
証明することに飽いている
あきあきしている

    それでもうまったく誰ひとりとして
    その前提を疑わず
    そうしてるうちはりついた
    したり顔のしかめ面で
    その壁面をのっぺりと
    さもありなんと眺めている
    その壁面にすがりつき
    つるつる滑る子らを見て
    悪魔の笑いを浮かべるのだ
    ぺったり頭蓋にはりついた
    したり顔のしかめ面で
    唇ゆがめのっぺりと
    声も出さずにわらうのだ

だから
たったそれだけのことなのだけど
ここに誰かがいたという
ただもうそのことが
さも重大なことのように

    今日もわたしは木槌を手に
    のみをかんこん打ち込むのである
    その壁面に打ち込むのである

    誰かがこの壁面に足をかけて
    額の汗を拭えるように
    誰かがこの壁面を抱きしめて
    人のこころを感じるように
    誰かがこの壁面にしがみついて
    日が昇るのを眺めるように
    誰かがこの壁面に腰掛けて

    ふう、と

    ひと息つくように

    だれかがこの壁面に火をともし
    息継ぎひとつ、するように

ここにも人の命がひとつ
命の炎の燃え尽きた
あかしをひとつ
残すために






http://teagon.seesaa.net/article/46790903.html

現実は薄気味悪さを身にまとい
着実に進化を遂げていく
我々は確かに神の創造物としては下等すぎた
運命の冗談そのものだろう
見るがいい
世界は全ての幻想をぬぐい去り
今なおそこに立っている
その発見がいかに罪深きものだとしても
白日の下にその陳腐な姿を曝した
現実そのものの馬鹿さ加減によって
その罪は中和される
何の理由があってそのようなことをしたのか
全く理解できないが
賢い人々はその無邪気さを呪いつつも
それが自らの罪でなかったことに感謝し
賞賛をすら与えるだろう

忘れるな
貴様の遺した刻印は
冥府まで持ってゆくことのできぬもの
この世の片隅に浮かぶ芥子粒ほどの惑星に
朽ち果てる肉体もろとも
滅び行くもの
魂の裁かれる場所は
学術図鑑に輪切りにされた
ほかならぬこの世界
その背表紙の裏に巣くう
かみくいむしの如くに
糊をはみ
無限に増殖するページの重さに耐えかね
押しつぶされるまで
ほこりにまみれて生きるがいい
それがあなたの魂の
限りない偶然のはてに行き着く
たったひとつの真実
最後の頁に
たどり着いたあなたを
祝福してくれる神など
居るはずもなく
あなたの悩みは全て
二日酔いの頭痛と
同等なのだから

人々から神を奪い取ったあなたは一体
どのような寝台で
どのような夢を見るのですか





「ニジイロ」
http://teagon.seesaa.net/article/102654421.html


少年の目は真実を紡ぎ

そこに大きな涙がひとつ

ほろりこぼれて

歯軋りひとつ


〈 仕方がない、これが生活という、ものだ 〉


少年の胸は悲しみを湛え

そこにちいさな炎がひとつ

ゆらりとゆれて

吐息をひとつ


〈 今はただ、明日を信じて、いこう 〉


少年の手は青空を描き

そこにきれいな架け橋ひとつ

自分のための光をひとつ

ふわりと浮いて

世界はひとつ




posted by gon at 01:07| Comment(8) | TrackBack(0) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月28日

戦争を棄権する自由

最近は愚樵さんのとこに入り浸ってます。
(愚樵さん、お忙しいとこ、ごめんなさいです)
で、結構言いたいこと言い放題に言わせてもらってすっきりしてるんですが。
何言ったか忘れてしまうと(自分なりに)たいへんなので、忘れちゃいけないなと思うものを、
ここにピックアップしていきます。

今回はこちらから、
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-228.html

「戦争を棄権する自由、」

それにしても、人類は、もう一度あの爆弾が自らの手によって人々の頭の上に炸裂する可能性について本当に信じているのでしょうかね。

人類の頭上で2度も爆発したあの爆弾。

あの光景は地獄以外の何ものでもないのだけど、それ以上に何を恐れるものがあるのか、わたしは不思議でしょうがないのですよ。

それとも、あたしらにとって、自分以外の人の地獄ってのは、それほど怖いものじゃないとでもいうことでしょうか。

核の傘の中で戦争をするってのは、

こちらに銃口を向けた警官にぐるりと囲まれたリングの上で殴り合いをするようなもんです。それを「見せ物」として観客から金を頂いて、その金を、その警官たちに上納するために。(上納する理由は今もってよくわからんのですが、なんでも、殴り合いの相手が反則をしたら「悲惨」なことになる云々、とのことらしいです)

というようなものです。

だから、そのこと(国際社会のシステム)に気付いたものは、警官の側になりたくて、銃を買うための資格と、銃を買うための金のために、ますます殴り合いをするという「悲惨」なことになってしまう。

もうやめましょうや、こんな馬鹿げたことは。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

| 2009-03-26 | ごん #bLNrjBuk URL [ 編集 ] | コメント番号2572 |


posted by gon at 07:41| Comment(13) | TrackBack(6) | 散策(コメント集) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月12日

徘徊

あたしは俳句はやらない

その理由はこれ、

これ以上のものも、これ以下のものも、あたしにはつくれない

つくる気がしない

季語がないから、俳句と呼べるシロモノではないんだけどね


   渋滞に CarCarCarと 鳴くカラス     ごん



20年ほど前、上野のアトリエ通りを美大生の美人と一緒に歩いているときに思いついた。

posted by gon at 21:36| Comment(0) | TrackBack(3) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月22日

じゅうごのじゆう

巷(ってどこ?)で話題の村上春樹さんの受賞スピーチについて、です
http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php

何だかまとまらないけど、
いつまでもまとまらなさそうだから、
急いで出したいなと思うとこだけ、出しときます

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

村上春樹は「どこそこのあの問題」に何もコミットしていない。だから「あいつが卵の側に立つことをもって自らを恃むのはおこがましい」などという意見が散見されるが(そしてそれは多くの場合「お前は壁の側だろう」という響きと共になされている)そういう人は自分の言葉が、小説家「村上春樹」以外の人間にどのように届くかわかっていてそれをやっているのだろうか
偽善者G


村上春樹が世界の(重要な)問題に何も為し得ていないと言う理由を持って

村上春樹を壁の側に追いやることは

全世界の個別な「やりきれなさ」を憂える人々を

壁の側に追いやることを意味している

壁の側に行く、この場合、潰れる卵としてなのか壁としてなのか

それはまったく問題ではない

村上春樹を批判する人々の多くが言うように

われわれがわれわれとしてここにある限り

言葉の遣い手として

「われわれの中に居る、わたし」は

常に卵であり、そして、壁でもあるのだから

村上春樹が「そこにある重大問題に対して何もしていない」ことをもって彼の言葉を批判するという論立てには重大な誤りがふたつある。ひとつは、それが壁の側にいるものの言い訳として、壁の持つ論理そのものを利するものでしかないということだ。そしてもうひとつは、これがいっそう罪深いことなのだが、卵の側に寄り添い、しかし解決策を見出せずに、こころやすらかでない日々を送っているものを「卵として壁にぶつかるか、壁の側に立つか」の2者択一に追い込むものだということ。「当事者としてどちらを取るか」というその選択は(村上春樹の言うような)小説家以外の多くの人々には、沈黙のショールを投げかけるものでしかない。そうして、しまいには卵の側に寄り添い、言葉を発するものは(批判されるところの村上春樹のような小説家以外)どこにもいなくなる。

わたしたちは、現在パレスチナで行われていることにコミットするように、以前のナチスドイツの行状とその多くの被害者にもコミットすべきであろう。その意味で、村上春樹の「常に卵の側に立つ」という言葉を、彼がパレスチナの人々に何も成し得ていないということをもって、現段階で、偽りだ、虚ろだと批判することのできるものが、今の日本にどれだけいるであろう。

今回の件における村上春樹の批判者には、ぜひともそのあたりのところを心に留め置いた上で、その論を展開することを願いたい。
偽善者G


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

村上春樹を読んでみようかと思ったのは3回
一度目は、アンダーグラウンドのとき
その次は、ある人に勧められて
そして、今回ということになる

高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ

本気で自らの書くものを恃むものは
この言葉にある種のうらやましさをおぼえるはずである
国というシステムが生み出されたそのときから

「誠実を胸に刻むこと」

それを自らの本義と恃む
世界各国の文学の徒において
「常に(潰れる)卵の側に立つ」というその言葉が
国家という壁との対峙を意味することを
知らぬものはない

文学というものは常に想像できうる最後の瞬間を想定しているものである

「常に(潰れる)卵の側に立つ」

だが、もしかするとこの言葉が、
自由に、そして無垢のまま表出されていることの意味を知るものは
世界にはまだ少ないかもしれない

だから
この言葉が生き残る可能性については
それは、それを受け取った我々の問題だろう

読んだものすべてに関わりを求める

これはこんなふうな言葉である
現状に何かをしたはずだという自負があるものには
つらく、おもく
現場で何もしていないと日々を嘆くものは
一縷の光に照らされ
そして
今しなければいけないことはわかっているのに
もしかしたら
きっと最期まで何もできないんじゃないか
わたしたちはいつまでも傍観者としていさせられるのではないか、と焦る人に
それでいいのですと呼びかけてくる
それでいいではないかと訴えかけてくる

「居合わせるこの場で、自らの目で見て、潰される卵の側に立ちなさい」

そうはたらきかけてくる

そしてそれはもちろん逆から言えば
常に目を開き、嘆き、憤り、そして、焦り続けろ
という重い十字架であり

非戦の誓い、九条を守るために喋り続けろ

というメッセージだ、と
わたしは
受け止めたい

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

わたしが卵のたとえで最初に思い描いたのは

バレーボールくらいの石を腹に結わえ付けて

息を引き取ったという零戦乗りの姿である

死に花を咲かせることのできなかった

その姿が

当時の民主主義の体現者である

アメリカ兵たちにどのように映ったか

プロパガンダに踊らされる人々と軍隊の蛮行

そして戦争そのものの愚劣さを唱えるとき

わたしは常にその沈黙の姿に脅かされる

その日本人に無言の即神仏の姿を要求した「日本人たち」が

今のわたしたちに重なるのだ

このわたしに、重なるのだ

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「常に卵の側に立つ」と「小説家」村上春樹は言った


問題のあの場で言った

アメリカ大統領が言えるだろうか

イスラエルの文学者が言えるだろうか

日本のジャーナリストが言えるだろうか

あなたには

言えるだろうか



posted by gon at 10:26| Comment(7) | TrackBack(7) | 壊憲手続き簡略化法案 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月09日

笛の音

熊谷、あまりにいとほしくて、いづくに刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消えはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべきことならねば、泣く泣く首をぞかいてんげる。
『平家物語』




http://kazeoto.com/atumorisaigo.html

あまりにも有名な平家物語、敦盛最期の段
組み伏せた平敦盛の首を
ためらいつつもかき切り
願ってもない武勲を手に入れたはずの熊谷次郎直実は
その一ノ谷の戦いの後


  あはれ弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。
  武芸の家に生まれずは、何とてかかるうきめをは見るべし。
  なさけなうも討ちたてまつるものかな。




この言葉を残して出家する

自らの息子と同じ年代の若武者
その首を切り取った
そのときの血しぶき、手応え、ぬくもり
そして、のこされた「青葉の笛」
夜ごと敵陣より聞こえてきた、あの笛の音
その音色の主はもう、この世にはいない

「平家にあらずんば人にあらず」

絢爛豪華な武家の末裔はもう
ここにはいない

この、熊谷次郎直実が
その首を、ねじ切ったからである
この手に渾身の力を込めて、引きちぎったからだ

そうするのが当然、だった、からである

直実は
手段が目的化することの愚かさ
そのことの気味悪さを

わたしに感得させてくれる

そうして、それはやはり後悔の念、だとわたしは思う

「なさけなうも討ちたてまつるものかな」

もう少し時間があれば、立ち止まる勇気があれば、殺すことはなかっただろうに

なぜ、ひとたびは躊躇ったこの手を、もう一度動かしたのか

どうしてわたしは、自らの中にわき上がるこの感情に、抗ったのか

「あまりにいとほしくて、いづくに刀を立つべしともおぼえず」

本当に、そうするのが当然、だったのか

いや、すでにわがこころは、もうひとつの自然をとらえていたはず

このこころにわきあがってくるものを

「この子を、殺しては、いけない」

この笛の音は、わたしにはそういうふうに、響いてくる

それが
熊谷次郎直実の奏でるものか
平敦盛のそれなのか
あるいは
琵琶法師のかき鳴らすものか
それとも
わたしのこころのものなのか
わからないのだけれど

死刑にしても、戦争にしても、自殺に追い込むにしても

人を殺めるということは

そういうことかもしれない



posted by gon at 23:30| Comment(0) | TrackBack(3) | 美しい日本の諸事情 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月05日

剣山

今回は、愚樵さんのこのエントリ
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-188.html
に、触発されて思い出したことをつらつらと・・・

(ちょっと、痛い、はなしです)

何年か前、沖縄のある高校で学園祭に合わせてひとつの試みをしたというニュースがありました。

その試みとは、人の集まるところに行き、道行く人に声をかけ、流木に五寸釘を1本打ってもらうというものです。(うろ覚えですがそういうふうなやり方だったと思います)

五寸釘を爆弾に、そして流木は沖縄本島に見立てて

はじめに流木と沖縄本島の面積の比から五寸釘の数(投下された爆弾の量)が割り出され、数百本の五寸釘が用意されました。そうして、その数百本の五寸釘が打ち込まれた「針の山」を学園祭で展示しようという意図のもと、その計画ははじめられたのです。しばらく、釘が数本のうちはスムーズに作業がはかどったといいます。ところが、やがてその流木が少しずつ不気味な黒い塊に仕上がっていくにつれて作業は進まなくなっていきます。人々が金槌を打つのをためらう、というのです。途中でやめてしまうのだと。ある人は一打ごとに嫌な感触がした、と言っていたそうです。

結局、その計画は頓挫し、数百本の五寸釘と、半分だけ「焼け野原」にされたオキナワのレプリカが残りました。それは映像で見ただけでも、金槌を手に途方に暮れた人々の気持ちが伝わってくるような、そんなもの、でした。

無作為に選び出された多くの人が感じた、この気持ち。

本来、殺戮や破壊に反対する無辜の民というのはこういうものではないかと、わたしは思うのです。

ここで流木に釘を打つのを拒絶させた「もの」は理性ではありません。爆弾をねらい通りに人々の頭の上に炸裂させることができるのは「作戦を遂行する兵士」です。兵士たち(のほとんど)は、ごく理性的に「それ」を行いました。

「敵が悪い。日本が悪い。わたしはなにもまちがっていない。これは愚行の報いだ」

という確固たる信念のもとに。

理性では戦争を止めることはできないのです。



アフガニスタン、イラク、そして今回のガザ、

わたしたちの税金が
わたしたちのはたらきが
今、ここにいるあたしらが


そこに一本の釘を打ち込んではないか


人々の頭上に振り下ろされる悪魔の鉄槌の映像


われわれはいつまでこの剣山をゆくのだろう


posted by gon at 23:32| Comment(7) | TrackBack(26) | 美しい日本の諸事情 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする